朝霧において迷路-まよいみち- サンプル
SAMPLE
「ありゃ?」
手入れ部屋を覗き込んできたのは、髭切だった。その後ろからひょこりと白山吉光が顔を出す。出陣していたのか髭切と白山は佩刀したままで、少し服が汚れている。髭切はきょろりと部屋を見回したあと、首を傾げた。
「主はまだ来ていないかい?」
「主様なら執務室にいらっしゃると思いますよ」
「僕たち、その執務室から来たんだよ。主に先に手入れ部屋に行っていろって言われてね」
「どこか怪我でもされましたか?」
それならば隣の部屋の準備をと腰を上げようとした物吉を、いいよと髭切が穏やかに笑って制する。
「かすり傷程度だから大丈夫だよ」
お邪魔するよと言う声は、手入れ部屋に寝かされているものがいるからか少し小さかった。手入れで部屋を使うならば隣の部屋を使うはずなのに、何故この部屋に入ってきたのかとその場に居た皆が疑問に思っている雰囲気の中、その空気を気にすることなく髭切はソハヤの側に座り込んだ。
「うーん?」
首を傾げた髭切は、ちょいちょいと手招きで白山を呼ぶ。何故呼ばれたのか分からない顔をしていた白山がソハヤの顔を覗き込み小さく首を傾げた後、しゃがみ込み額に触れた。白山が神技を使う時の柔らかい音が響き、暫くの後消えていく。顔を上げた白山は髭切と視線を合わせ、髭切もそれに応えるように頷いた。
「検査完了しました。中身が半分ほど居ません」
「……え?」
「うん、だよねぇ。居ないというか、欠けてるのかな。中身が足りないね」
何を言われたのか分からず皆がぽかんとした表情を浮かべる。少しの間を置いて、中身が居ない、という言葉の意味に気づき、大典太は目を見張った。
中身、すなわち、己たちの核となる、付喪神としての存在。人で言う魂のようなもの。それが、眠っているソハヤの中に居ない。それがどういう意味なのか、分からないわけではない。
「お、俺、主呼んでくる!」
「俺は陸奥守さん呼んでくる!」
先に我に返った包丁と後藤が立ち上がり、主と近侍頭でもある初期刀を呼びに手入れ部屋を出ていく。残された大典太と物吉は、驚愕した顔のまま二振りを見つめることしか出来ない。
「……判る、のか」
大典太がかろうじて聞けた問いには、うーん、と曖昧な返事が返ってくる。
「はっきりとは判らないけど、なんか足りないなぁって気配がするんだよね。今のこの子、ふわふわした雲みたい」
「雲……?」
「存在が不安定、ということかと。わたくしの修復の力も効きませんでした」
平坦な声の中に少しの無念さを滲ませた白山が言うには、中身がないために力を流してもどこかに流れ出ていっているようだということだった。己が霊力を流したときの様子に似ていて、足りない、と感じたのは間違いではなかったようだ。
瘴気を祓ったときに石切丸にソハヤの状態を見てもらったが、かの刀は何も言っていなかった。御神刀に判らず何故髭切は判るのかと聞けば、僕はそういうものだからね、とふんわりとした応えしか返ってこなかった。
「この子、どうしたの?」
聞かれてこれまでのことを話そうとしたが、思っていたよりも髭切と白山が視た事実に衝撃を受けたようでうまく話せず、己の代わりに物吉がかいつまんで話してくれた。
「ふぅん。なるほどねぇ」
ちらと髭切の切れ長の目がこちらを見る。普段のふわふわとした軽さはなく、刺すような視線を受けて大典太は戸惑う。
「君は、この子と兄弟だよね」
「あ、ああ」
「お兄ちゃんなら、弟のことちゃんと守ってあげないと駄目じゃない。そんなに落ち込むほど大切なら尚更だよ。身体のことじゃないのは、分かってるよね?」
「……っ、」
髭切の言葉が鋭く胸に刺さる。言われずとも分かっている、と言おうとして、けれど結果として守るどころか危険にさらしてしまったと思えば、反論は出来なかった。
己は、この刀を、兄弟を守ることが出来なかったのだ。それどころか、ソハヤに守られたのだろう。それが酷く不甲斐なくて情けなくて、守れなかったことを後悔して、気分はどんどん沈み込んでいく。いくら練度が上限に達していようとも、兄弟すら守れないのでは意味がない。兄弟が身を挺して守る価値すらも、ない刀だ。
「落ち込むのは勝手だけど、今君がやるべきことはそうじゃないよね。弟が困ってたら助けて、守ってあげないと。失いたくないのならね。それが兄の役割だよ」
髭切の言葉は容赦がない。彼が兄として自身の弟のことを大切に思っている故の、言葉だ。だからこそ、甘んじてそれを受け止める。髭切の言葉は、きっと己が取るべき道を示してくれている。