秘密の約束 サンプル

SAMPLE

 函館へ行くと主に告げた次の日、主に言われた通りに函館へと出陣する命が下され、和泉守は自室で戦支度をしていた。支度とは言ってもいつでも出陣できるように待機をしていたため、準備が必要な物は殆どなかった。防具を付け、本丸内で帯刀を禁止されている刀を佩くことくらいだ。
 一言も発すること無く、一つ一つの動作を真剣に行いながら、準備を済ませていく。閉ざした障子戸から差し込む陽の光に照らされた室内は、けれどしんと静まり返って、冷たさすら感じるほどだ。本丸内の喧噪もどこか遠くに聞こえる。これから函館へ赴くとなれば、自然に神経が研ぎ澄まされ、集中力が高まっていく。
 刀掛台に掛けてある己が依代である太刀を手に取った。鞘から僅かに刀身を引き抜けば、前回の出陣の時に手入れされ、綺麗に磨き上げられた鈍く光る刃が現れる。刀身を鞘に戻して腰に佩くと、よく馴染んだ重さが加わった。
 全ての戦支度を終え、衣紋掛けに掛けてあるだんだらの羽織を取ろうと一歩踏み出すと、かちゃりと刀が微かに鳴った。いつもであれば気にしないその音がやけに大きく聞こえた気がするのは、神経が研ぎ澄まされているからだろうか。
 和泉守は、腰に佩いた己が依代である和泉守兼定の位置を直す。太刀はしっかりとそこに収まり、敵を殺すために抜かれることを待っている。出陣の際はいつも佩いている己自身である刀は、けれど今日は重くすら感じた。その重さは、己が酷く函館という地を意識しているということを伝えてくる。
 今日、これから、己は和泉守兼定として函館へ赴く。顕現してから、否、刀で在った時から初めて訪れることになる函館に、どうしても意識が行ってしまう。なるべく余計なことは考えず目の前のことのみを考えたいのだが、それも上手くいきそうにもない。
 それは仕方が無いことだと判っている。己が、和泉守兼定である限り、函館からは逃れられないのだ。
 かちゃり、とまた音が鳴る。まるで己の心を見透かしたかのように音を出す刀は、紛れも無く己自身だった。
「兼さん? 準備終わった?」
 障子戸に黒い影が浮かぶと同時、静かに戸が開けられる。開いた隙間から顔を出したのは堀川で、中に入ってこないのは遠慮からだろう。見慣れた戦装束を纏った堀川の表情は、けれど少し硬い。背に陽の光を浴びている堀川の身体は薄暗く、故にそう見えるのかもしれないが、雰囲気もどこか静かであった。いつもの明るさが少しなりを潜めている、と和泉守は思う。
 己が土方歳三の愛刀であった和泉守兼定であるように、堀川もまた、土方歳三の愛刀であった堀川国広なのだ。覚悟を決めたからには割り切れ、というのは、どうにも難しい。人を模したこの身と心は己自身であるはずのに、上手く制御することができない。本当に人にでもなったかのように、己の意思など関係ないとでも言うように、次から次へと溢れてくる感情を持て余しているのは同じだ。
「もうすぐ時間だよ」
「ああ、すぐ行く」
 和泉守は衣紋掛けから羽織を手に取ると、付け忘れた物がないかを確認するためにぐるりと室内を見回してからだんだら模様の羽織を肩に掛け、落ちないように紐を結ぶ。位置を調整して羽織がずれないことを確かめてから、気持ちを切り替えるためにゆるりと目を瞑る。
 羽織を着ると、身の引き締まる思いがした。前の主が羽織っていた誇りとも呼べるもの。志とも呼べるもの。この羽織が、己を和泉守兼定足らしめてくれるのだ。
 ――果たして己は、これに恥じぬように使命を全うできるのか。
 己自身に投げかけた問いに応える声はない。けれど問いはまるで水のように、己が中へと広がっていく。
 神経を研ぎ澄ます。己が刀の切っ先のように、鋭く、強く。しん、と静まり返る暗闇の中で、心の臓が脈打つ音だけが響く。
「――よし」
 
 

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