青に揺蕩い、赤に消え 中 サンプル
SAMPLE
「じゃあ、行ってらっしゃい」
審神者の出発の合図に合わせて、ごう、と遡行の空間が大きく音を立てた。行くぞ、と隊長の指示に従い、皆がその空間へと足を踏み入れる。全員が門の外へ出たことを確認した審神者が門を閉め、徐々に細くなっていく本丸に満ちた神気の光が消えた瞬間。
何かに、身体を引っ張られた。
「うお」
「うわっ、」
「来たね」
何度経験しても慣れない強い力に引きずられる感覚に、それぞれが声を上げる。遠征の遡行失敗の時は、必ずこの力が発生する。元から遡行の座標が間違っていた戦への出陣の際は、この感覚はなかった。この感覚が審神者の力不足によるものなのか、それとも本丸の不具合によるものなのか、それは和泉守たちには判らない。ただ、この引っ張られる力を感じると、遡行に失敗するということだけ判っている。
実際に引っ張られている時間は短かった。ふ、と身体を引っ張る力が途切れ、遡行が完了したことを知る。さて今回はどの遠征地域に出陣をしたのだろうかと、確認するために顔をあげた和泉守は、暗闇の中からぱっと変わった景色に呆然とした。
「……は?」
同じく呆然とした声をだしたのは加州で、目を丸くして目の前にあるものの様子を眺めている。
「おやおや、これは困ったねぇ」
困った様子の感じられないのんきな声で、けれど僅かばかりその声音に困惑を滲ませているのは青江だ。
「……狐にでも、化かされているのか?」
「それはないと思うよ、兄弟」
警戒心を出しているのかこの状況が飲み込めないのか、冗談のようなことを言う山姥切を堀川が切り捨てる。
「こりゃあ、驚きじゃあ」
「驚きっていうか、こんなことあるのか? つうか、どこだここ」
驚いたと言う割には落ち着いた態度でまじまじとその景色を眺める陸奥守と同じようにその景色を見ながら、和泉守は誰にともなく問う。
誰ひとりとして、和泉守の問いに答えられるものはいない。なにせ、こんな場所に出たのは初めてのことだった。
「これってさ、門、だよね?」
信じられないというように呟いた加州につられて、目の前にある大きな建造物を見上げる。それはどこら見ても、門、としか言い表しようのないものだった。それも日頃見ている門とよく似ている。
「本丸の門、だな」
「みたいだね。ちょっと形式は違うけど、本丸の門だ」
僅かばかり色が剥げてところどころ朽ちてはいるが、間違えようもなく、それは本丸の門だった。ぐるりと辺りを見回せば、門から続く塀が遠くまで見える。微かではあるが、結界のような存在も感じる。
「つまり、僕たちは他の本丸へと飛ばされた、ってことになるのかな?」
青江の言葉に、皆が息を呑む。しん、と静まり返った場所に漂うのは、困惑と驚愕だ。
遡行の不具合といっても、今までは他の遠征地に出るだけだったというのに、何故他の本丸に出たのか。演練や出陣の仕組みなどで他の本丸の存在は知ってはいるが、互いの本丸は遡行軍に攻め込まれないように結界に隠されていて、行き来することは出来ないようになっている筈だ。なのに、何故。
「どうしたもんかのぉ」
「どうするもなにも、遠征目的達成できないからどうしようもないじゃん」
「まずは主さんに連絡を取ろう。兄弟、機械を預かってるよね?」
「ああ」
ごそごそと山姥切が腰付近につけていた巾着を探り、政府から借りたという機械を取り出す。全員でその機械を囲んで覗き込んだ。遠征に出る前に使い方を教えてもらっていたようで、辿々しい手つきで機械を操作すると、その機械から音が鳴る。呼び出し音が鳴ると説明を受けていたが、その音が一つ終わる前に慌てた審神者の声が機械から聞こえてきた。
『大丈夫!? 皆いる!?』
突然響いた大声に、山姥切が機械を遠ざける。
「大丈夫です、皆います。だから落ち着いてください、主さん」
初めてのことに取り乱している審神者を宥めるように堀川が落ち着いた声で話しかけるが、審神者は落ち着くことなく矢継ぎ早に問いかけてくる。
『何処に出た!? っていうか何処にいる!? 敵とかいる!?』
「こりゃあ駄目じゃの。相当気が動転しゆう」
苦笑交じりに呟いた陸奥守の声も審神者の声にかき消されて、堀川も「もう」と溜息を吐いた。
ここにいる皆が先ほどまでの困惑など無かったかのように、やれやれと肩を竦めたり冷静な面持ちで審神者の声が聴こえる機械を見ている。自身よりも他者の方が動揺していると、冷静になるようだ。
『門を閉じた後に今まで見たこと無い数字が表示されてさ、場所でもなく数字だよ? 何処に出たかも判らないし皆が無事なのかも判らなかったし、調査の人はその数字を控えたら急いで本丸に戻っちゃうし』
自身で質問をしておきながら応えを待たず、よかった連絡ついて、と情けない声で言う審神者から伝わってくるのは、心配と安堵だ。門が閉じた後にこちらのことを酷く心配してくれたのだろうということが伝わってくる。その心が嬉しくないわけではないが、こうして無事なのが判ったのだからもう少し落ち着いてほしい、というのはここにいる皆の思いだろう。
「とりあえず皆無事で、敵の姿もないので安心してください。場所は正確には判らないんですけど、他の本丸の門の前に出ちゃったみたいです」
『……他の本丸? え? 本当に本丸?』
やっと落ち着いたらしい審神者が、堀川の報告に訝しげな声を出す。
「だと思いますよ」
「少し寂れてるけど、俺たちの本丸と同じ作りをした門の前にいるよ」
『同じ作りをした門の前? ……他には、なんかある?』
言われて再度辺りを見回した。けれどあるのは門が一つだけで、他に見えるものといえば、地面と塀くらいなものだ。ぴたりと閉じられている門からは、中の様子は判らない。
「門が一つと、塀だけだぜ。他には何も見当たらねえ」
「一年以上前、おそらく初期に作られた、どこかの本丸じゃの」
補足した陸奥守に、門が二つある本丸はここ一年以内に出来た本丸だと、顕現した時に説明されたことを思い出す。つまり一つしかないこの本丸は、それ以上前に作られた、初期型の本丸だということだ。
『うーん、じゃあやっぱり他の本丸なのかなぁ。おかしいな、他の本丸には行けないはずなんだけど』
「それこそ、不具合じゃないのかな。行けない場所に行ける……まるで呼ばれているようだね」
『ちょっと、そういうこと言うなよ青江。って、あ、帰ってきた』
にわかに通信機器の向こうが騒がしくなる。漏れ聞こえる会話から察するに、政府の調査員が全員やってきたのだろう。審神者に何かの指示を出しているようで、審神者の戸惑うような声も聞こえてくる。こちらとしては審神者に指示を貰わなければ動くことも出来ず、その会話が終わるのをじっと待った。
やがて声が聞こえなくなり、会話が終わったらしい審神者の「あー……」という困惑した声が聞こえてくる。
『あのさ。門って、開ける?』
「え、判んないけど」
『政府の人がさ、門を開けて、中を見て来て欲しいって』
門を開けて中に入る。六振りは一斉に門を見上げた。確かに門と塀があるのならその中もあるのだろうが、その中に入ることまでは想像しておらず、入っても良いものだろうかと政府のその指示に困惑する。
『無理だと思ったら門の外で待機してもらっていいし、連絡貰えれば強制的に呼び戻すから』
政府の指示は審神者にも予想外だったらしく、申し訳なさそうに言う。
「入ると言うたち、他の本丸に無断で入ってえいがか?」
最もな陸奥守の疑問だが、審神者は政府が良いって言うから、とだけ返す。
「政府が言うんなら仕方がないんじゃない? さっさと入って確認して、さっさと帰ろーよ」
「清光、先に行ったら危ないよ」
面倒くさいとばかりに加州が一人で門へと向かう。山姥切も加州の意見に異論はないようで、通信機器を堀川に預けてその後を追った。残った和泉守たちも顔を見合わせると、門へと歩いて行く。
「それじゃあ、僕たちは中を見てきます。何があるか判らないので通信は切りますね」
『ほんと危ないと思ったら出てきていいから。あ、あと、一応写真とかの記録もお願い』
「はい、判りました」
堀川は山姥切と同じように腰につけていた巾着から、審神者に渡された機械を取り出す。小さな機械を胸につけて落ちないかを確認した後、よし、と小さく呟いた。
『ごめん、帰ってきたら燭台切たちに頼んで美味しいご飯用意してもらっておくから!』
「おお、ほりゃあ楽しみじゃの! ほんなら、しゃんしゃん終わらせていぬるぜよ」
「他の本丸に長居なんか、頼まれてもしたくねえな」
『じゃあよろしく』
はい、と堀川が応えて、通信を切る。門の前で待っていた山姥切に通信機器を預け、大きな門を見上げた。
「でも、政府が調査を依頼してくるってことは、この中には誰もいないのかな」
「そう考えるのが妥当だろうね。刀剣男士がいる本丸ならわざわざ中を確認しろなんて言ってこないだろうし。それに、ここの神気があまり感じられないのが気になるね。他の本丸の気配には不感症、なのかな?」
「ほにほに。こればあ騒ぎゆうがやき、誰も出てこないがはおかしいのぉ」
「確かに、誰も出てこねえな。刀剣たちはともかく、他の気配が混じったら審神者が気づきそうなもんなのによ」
結界の外だから気づかないのかもしれない可能性もあるが、それでは敵に攻め入られた時に不利になる。流石にそのような作りはしていないだろうと考えると、気配を隠そうともしていないのに本丸から誰も出てこないのはおかしかった。
「こんな外で考えてたってなんにも解決しないって。中に入って確かめれば簡単じゃん」
「ああ」
加州の言うことも最もだが、けれどやはりこれほど静かな他の本丸に入るというのは、僅かながら戸惑いがある。だが和泉守たちの戸惑いを他所に、加州が門の前に立つと中へと呼びかけた。
「ごめんくださーい」
けれど中からは何の声も何の応えもない。その静寂を返事と取った加州は、山姥切に指示しながら門の扉へと手をついて、せーの、の掛け声と共に戸を押した。内にかける閂をしていなかったのだろうか、扉はぎぎぎと軋む音を立てながらも簡単に開いた。
扉を開けた瞬間に、中からむわりとした冷えた空気が漂ってくる。その空気に頬を撫でられ、嫌な感覚にぞわりと背が粟立つ。
「え、なにこれ」
己の感覚に気を取られていた和泉守は、加州の愕然とした声にはっと顔を上げた。そうして同じく、愕然とした。
「……なんだ、これ」
目の前に広がっている光景に、思わず声が漏れる。
門の前にでた時よりも驚愕は強く、信じられないとその場に立ち尽くす。他のものも同じだったのだろう、和泉守の後に続く声は無かった。
空を覆う黒い雲。落ちた瓦。折れた柱。伸びっぱなしの草。全く感じられない神気。荒れ放題の庭。
朽ちた本丸が、そこにはあった。
それは、和泉守には酷く衝撃だった。思考が上手く働かず、視線を動かすことも出来ず、ただじっと朽ちた本丸に見入った。こうなるのかと、ただそれだけが頭を占める。
皆が言葉を忘れて、しばしその場に立ち尽くす。
「……なんだか、嫌な臭いがするね」
その沈黙を破ったのは、青江だった。鼻をひくつかせながら、わずかに眉を寄せている。それに倣って臭いを嗅ぐと、湿気の臭いに混じって微かに嗅いだことのある臭いがした。
「血……? ううん、違う。鉄が錆びたような……」
単に確認するように呟いたのだろう堀川の言葉に、心の臓が強く跳ねた。
錆。この本丸は、錆びているのか。
「とにかく、現状を確かめたほうがいいね。兄弟、どうする?」
「……ああ。三手に別れて、調べる。裏手からと、本丸、刀剣の屋敷を」
「判った。じゃあ、僕と兼さん、陸奥守さんと兄弟、青江さんと清光に別れて調べよう」
どこか呆然としながらも指示を出す山姥切の後を引き継いで、堀川がてきぱきと部隊を分けていく。それに異論もなく、それぞれが別れて本丸を調べることになった。
和泉守と堀川は本丸を調べることになり、先ほど加州がしたように一応呼びかけてから、応えがないことを確認して本丸へと上がり込んだ。外から見ても判るほどに朽ちている本丸はやはり中も相応で、廊下に穴が開いていたり天井が剥がれていたりと、荒れ放題だった。土足で本丸に上がることに多少の抵抗を持ちながらも、怪我をしないように気をつけて歩き回る。
「多少の違いはあるけど、間取りは僕達のところとほとんど一緒だね」
「みてえだな。ってことは、広間や審神者の部屋はこっちか」
迷うこと無く、和泉守と堀川は本丸の中央にある広間へと向かう。途中にある部屋を覗いてみても、台所にも道場にも、どこにも人や刀剣男士の気配はなかった。ただ、湿気を帯びた冷たい空気と朽ちかけているものが存在するだけで、何も感じられない。
何処にも何も無く、朽ちているだけの本丸。木で作られた棚や机などは朽ち落ち、鋼で作られたものは錆び付いている。それらは全て和泉守も本丸で使ったことのあるものばかりで、同じようにこの本丸の刀剣たちも使っていたのだろう。
朽ちた部屋の中で刀剣たちの営みがあった形跡を見つけるたびに、心の臓がぎしりと締め付けられる。言いようのない焦燥感のようなものに急かされながら、先へ先へと廊下を急ぐ。
審神者の部屋らしき場所を見つけ、勢い良く戸を開けた。だが予想通りに中には誰もおらず、整頓された机や箪笥、棚があるだけだった。朽ちた木や道具などが散乱していた他の部屋とは違いこの部屋だけ綺麗なのは、掃除をしていたものがいたからだろうか。
「綺麗なもんだな」
「そうだね……」
その綺麗さが余計に生活感を感じさせ、胸が痛む。
「兼さん、大広間も調べよう」
「ああ」
堀川に促され、和泉守は審神者の部屋を出て大広間に向かった。ぼろぼろになってはいるがなんとか戸の役割を果たしているそれを、崩れないように慎重に開ける。
「……な」
門の前に出た時、門を開けた時にも呆然としたが、今度こそ和泉守は絶句した。
広間の反対側の障子は開け放してあり、雑草が伸びて見る影もなくなった日本庭園を模した庭と、葉の落ちた木々、その向こうに重く暗い雲が見える。そしてその手前、誰もいない広い部屋の縁側の近くにある塊。
「っ、」
鉄錆の臭いが鼻を掠め、ぞわりと冷たい何かが背を走る。冷たさに背を押されるようにして、聖域のようにさえ見えるそこへと、畳を踏み抜かないように一歩一歩慎重に近づいていく。足を踏み出すごとにきしむ床の音が耳に煩い。
「……刀……?」
そこには、規則正しく並べられた、錆びた刀があった。